神仏や祈祷で治してくれるなら最初から病気にはならない

前に書いたものです。

癌治療から退院して丸半年が経過。
その後の経過はありがたい事に転移も無く、患部も今では癌細胞の死骸になって再発も無いでしょうと。それでも月に一度の定期検診は受けて、転移、再発の早期発見に、と。
おいらがかかった癌については再発、転移がしやすい癌らしい。確かに口から出口までを考えると、舌、咽頭、肺、胃、大腸、小腸、全てに癌が着く。煙草の影響だったら、年数を考えると真っ先に肺だったと思うが、肺ではなく、咽頭だった。

過去の記事を参考にしてもらえれば状況を見る事ができる。しかしながら、退院後は復調しておらず、こまめに記事を更新していないところですが…。またこれはきちんと記事にする予定。
入院前の記事も誤字脱字や文章が恐ろしくおかしいのもるし、一度整理する必要はあるかもしれません…。

今の体調は退院後よりも間違いなく復調している、かと思っている…。
しかしながら未だ働けず、寝たきりになる時もある。原因は血液の数値が健常レベルに達していない、唾液腺が正常に機能していないので、常に口は乾き、味覚も低下して食欲も落ちる。入院前と比べて体重は15Kg程減っている。口腔内を少しでも乾燥しないように、寝ている際も歯を食いしばってしまって顎関節症も起こした。

そんな中、先月より過去に通って、体調を良くしてもらった整体鍼灸医へ通っている。おかげで顎関節症は和らぎ、唾液も徐々に増えてきて、食事も少しは増えてきたかと思う。しかしながら日進月歩。日によって上がり下がりする体調に嫌気がさして気分が落ちたり、活動量が落ちたりと。
昨日までの体調より良くはなっていると思いつつ、欲が出るのか、少しでも体調が悪ければ、やっぱりまだ回復していないと思い、気持ちも下降する。

その鍼灸医に通って、毎日ギターが弾けるようになった事が一番大きく感じている。それまでは1週間に一度とか、ギターを触るようにしていたけど、今ほど指廻りも出来ていなかったし、速いパッセージも弾けていなかった。今では少々体調が悪くても2〜3時間は弾いている。
また、社会復帰して働けるよう、色々と情報を集めたり、面接の応募もしたりと、行動は上がり下がりもしているが徐々にアクティブになっているかなぁと。

まあ、そんな中でもFacebookで忘備録として呟いた事で絡んできた友人には殆、呆れや失望を感じてしまった。

自分自身の人生観の中で神仏や宗教、政治は批判的ではない。各々の信念に忠実に信仰していれば良いだろう。啓蒙や勧誘は確かに運営やら人集めには必要かもしれない。
しかし、病み切って疲れ果てている心身の人間に対して、「藁をも掴む思いなら一度お参りしてみませんか?」…と。
藁をも掴む。その一言ってどれだけの覚悟を持たれているのか?
捕まるものもなく溺れてもがき苦しんでいる人間に「我々の信仰は溺れなくてすみますよ」と言っている。
では、そのまま溺れ続けているならどうするのだろうか?

体験談なのか、信仰の冊子なのかは分からないが、「一心に信じればステージ5の肺癌が跡形もなく消えた」という、長い文章を送りつけてきた。
「入信は強制じゃないから…」と一言。

…確かにこの友人には自分が職を辞めて自営していた時に色々としてもらった多少の恩義がある。過去にも同じ信仰を勧められたが、やんわりと

断っていた。
しかし、今は気持ちも身体も状態的には良いとも言えない。そんな中で「信仰すれば」現状を打破できると啓蒙してくる。信仰の内容も、一心に守護神に感謝と自分自身に向き合えば…。
仮に、「藁をもつかむ」思いで信仰に傾倒して、時間をかけて「体力が回復した」だから皆さんも同じ信仰を広めましょう。と、先述の体験談なのか分からないが同じようにその信仰の美談として冊子に掲載されるだろう。
では一向に身体が回復しなかったら?

…自分が見聞してきたもの大体が
「信仰心が足りていない」
「感謝が足りていない」
「啓蒙活動が足りてない」
「お布施が足りていない」

自分が元々何かを信仰していたら癌にはかかっていなかったのか?職を転々としてボロボロになって鬱になっていなかったのか?それは誰も分からない。

あの治療も、退院後のボロボロの身体も乗り越えて今がある。退院後も復調しない身体に散々悩んだ。
一向に前向かない体調でも、治療を信じて、家族を信じて。

癌治療は個人差がある。自分と同じ癌になって退院後すぐに社会復帰出来る人、逆に後遺症が酷くなり病院のベッドへ逆戻りする人。だから自分の備忘録として現状を呟いただけなのだ。
後遺症は必ずつきまとう。それだけ大きな病気であり、薬、治療法なのである。それだけの治療体験をしたのだから、「藁をも掴む思いで…」「お参りすれば…」、親切心かもしれないが、自分が受けた治療、家族の頑張り、思い、それら全てが足りていないと言われている気がしてならない。

信仰や政治の啓蒙は何かに感謝して、お祈りして、みんなで幸せになりましょう。争いを無くしましょう。差別を無くしましょう。
自分から言わせれば、鬱にかかった時点で差別を受けているし、幸せから遠ざかっている。それは信仰が足らないからだ。もっと感謝して、お祈りして、布教しましょう。
確かに必要としている人はいるかもしれない。その啓蒙はその人が求めていたもの。その人の病気も心も改善される。

自分はその人ではない。

神仏は信仰する気はないし、政治も啓蒙される気もない。親類にも宗教で家族離散の家庭もあったし、政治運動で離れた友人もいる。後、自分も保険屋を生業としていた時は蜘蛛の子を散らすように友人が離れていった。
だから自分も保険屋の時は「それ以上」踏み込む事がなかったし、踏み込もうとはしなかった。

確かにこのようなセンシティブな情報は啓蒙とか、人からの情報が大きいと思う。その時に信じるか信じないかは目の前で信じれる何かを表現、体験し、必要と思わせないと信仰、傾倒する事ができないだろう。
自分から「信じられる」と発信できる事は素晴らしい事だと思うが、その覚悟は、伝えている人の覚悟を上回って救いの手を差し伸べるだけのものが必要だと考えさせられる出来事だった。

宗教、政治、各々の傾倒や信仰は否定はしない。しかし、伝える、伝えた相手がどれだけの生活、体験をしているのかを理解して欲しいものだ。

徒然なる日々の生活の中に。